VOL.8 二人の麺師


 戦後のラーメンが、今日の様に“札幌ラーメン"として全国に知られ、札幌名物にまでなったその影には西山仙治を忘れてはいけない。

 富山県生まれ、若いとき(昭和三年ごろ)から東京に出て、中華調理一般と、ソバ、ウドン、ラーメンと麺類の修業を積んでいる。
 とくにラーメンに関しては、入手がむづかし いとされている天然のカン石(カン水の原料)の入手先も知っていて、麺づくりは名人と さえ言われた人である。
 その仙治がどうしたわけか、富山県に帰らずに戦後の札幌にやって来た。
  もし仙治が富山に帰っていたら、あるいは今日の札幌ラーメンがどうなっていたか、あやぶまれる。

 昭和二十二年、狸小路二丁目金市舘前に『だるま軒』を出したことは前述の通りである。
 仙治は、自分の店で使う麺だけでなく、頼まれるままに、街辻や空地に出来た屋台ラーメ ン店の麺をもつくった。昭和二十五年にはそうしたラーメン店が約四十軒、その中には後 の『龍鳳』の松田勘七の店もあった。
 屋台の数がふえれば仙治の麺の需要はふえる。そこで従来までの手勳式の製麺機を動力に切り換えることを思いついた。
 
早速東京駒形の顔見知 りの機械屋永井準一郎を訪ね、馬力、大きさ、機能などこまごまと相談して注艾し、 帰途、故郷富山県の山奥に寄った。 仙治は、どうしても人手が必要であったし、それには仙治の叔父の息子西山孝之(当時二十二歳)を連れて行き、ゆくゆくは工場を継がせようと考えていた。
 彼の叔父は「若いころから冨山の家を飛び出し東京にいても転々と職場を替え、あげくの果て北海道に息子を連れて行くという仙治の申 し出」をなかなか承諾できなかった。
 孝之はそのころ農家をしていた叔父の家の働き手だったのである。
 仙治は札幌の状況を話し、どうにか承諾を得て西山孝之(元西山製麺社長)を札幌に連れて来た。

 札幌に帰った仙治は、機械の到着を待って昭和二十五年、北十七東十二、国鉄苗穂工磯部の正門前の家の一室を借り、そこに機械を据えた。 間借りの製麺工場である。機械が動 き出すと、おもしろい程麺ができた。ひところは二十二キロの粉を十袋も消化したというか ら、一玉一五〇グラムに計算しても大変な数字になる。音更からやって来た春日光雄(当時十五、六歳=現在帯広)も加わって、いよいよ本格的に製麺業をはじめたのである。
 『だるま軒』も金市舘前から移転した。
 折よく南三東一に格好の店があった為、今度はそこに店を張った。
 二条魚市場の一角であったため、店の売り上げも上々だった(昭和二十四年)。

 製麺業の方は動力にしてから急激に注文が増えはじめ、室蘭、恵庭、千歳、長沼辺りからも注文が来るようになり、昭和二十七年ごろには粉を二十五、六袋もつかうようになった。
 その中には松田勘七や大宮守人の店の麺もあったが、グランドホテルからの注文も含んでい
た。

 昭和二十八年、こんどは南三西八に八坪ほどの場所を借りることができた。
 仙治はそこに小型の製麺機三台を入れて据えた。もちろん機械は自ら充分検討し機能のよいものにしての上だ。
 そしてすべてを用意し、いつでも操業できるばかりにして、この工場を西山孝之に渡し、当時の八十軒にのぼる顧客代帳も渡して北見へ出ていった。
 今日の西山製麺はこの時を創業としている。仙治は北見でやはり麺を打ちラーメン店をやった。  彼の教えを受けた人びとの中で今日も北見市で麺をつくっている人がいる筈である。

 もう一人の麺師とは麺よし堀川製麺所の初代社長堀川寿一(じゅいち)の事である。この人の功績は、麺の量産にかかせない機械の開発ということになるが、残念なことに昭和四十二年十月、五十二才の若さで没している。
  堀川は十一才の時、市内の近藤製粉に住込みで入った。
 昼は働き、夜が来ると札幌市立商工学校に通い出したのが昭和四年。
 まず電気科に入り昭和六年三月に 卒業するとすぐ同校機械科に進み、昭和八年三月両科を卒業している。
 この昼間の勤務の 疲れにめげず、両科を精勤し卒業したことは、少年堀川をいつしか“機械屋"に育て上げていたようだ。

 昭和二十三年に独立し、南七西九に製麺所を設けた。はじめは手回し機で操業、朝四時から仕事をはじめ、うどん、ソバもつくった、が、やはり主力はラーメンだった。
  昭和二十八年に南八西十に移転、この時動力工場となった。

  動力で操業しているうちに「機械屋」らしく、自動的に麺にパーマネントのかかる方法を思いついた。麺の通る部分に厚さ五ミリ程のゴム板を柾を葺くように並べる方法だ。ここを通る麺は、ゴム板の弾力と動力の 振動でパーマがかかるのである。
 このパーマを手初めに、昭和三十年にラーメンの製麺の上での画期的発明をしたのである。
 これは麺の切断機で、自動的に一玉分を計量し、切断する機械である。これによって「麺を切る人、運ぶ人、さらに計る人の三人分の手間」がはぶけるというもので、昭和三十三年に特許を取っている。

 特許権を持つと、普通の人はそれで金儲けを考えるものだが、堀川はそうではなかった。
 業界の人びとが喜んで使ってくれるなら、特許権をふり回しはしない、そういう根っからの機械屋だったようだ。
 この切断機は、その後時を経た今日も製麺業者に重宝がられているほどの画期的な発明であって、本場さっぽろラーメンの本拠地としての面目躍如たるも のといえる。
  この切断機の第一号機は、 現在それ自体単独でも手動できるようにして、特許の許可証とともに麺よし堀川製麺所で大事に保管している。