VOL.7 公楽ラーメン名店街


  大宮守人は松田勘七の店でラーメン作りに自信をつけて、昭和二十五年四月、成田山新栄寺の北側、阿部按摩の庭を借りてラーメン店を開業した。
 このとき、客の注文を受けてから、じっと麺のゆで上りを待つ手持ち無沙汰はサマにならないことに気付き、ここは麺をボイルしている時間をショーでも見せる気になってフライパンの操作を考え出した。
  そのフライパンには玉ねぎが一番よいのだが、いくら道産品といっても玉ねぎだけではコスト高で使えないため、モヤシをも使うことにし、モヤシ屋を 探がした。
  当時モヤシの需要は少なく、それだけに探すのに苦労をしたが 幸いなことに当時北三条西十一丁目に三木正一がモヤシを製造販売していた。 三木のモヤシはそのころすすきの市場などに出して、一部は料理屋へ、そのほか一般小売りで細々の商売であった。総量にして現在の十分の一も売れなかったし、夏は全く売れなかった。
  そのモヤシが大宮によって使われはじめてからは、俄然、三木にやる気が出て来た。
  それはラーメン店があちらこちらに出来はじめていたからである。事実、あれから今日まで、 モヤシはラーメンには欠かせないもののようになり、三木は西区二十四軒一ノ四に昭和四十三年に移転し今日も量産しているが「私のモヤシ屋を今日に育てたのは三平さんだ」と 言っている。
 

 大宮はまた満鉄で汽車を動かした戦争中の経験を生かした。
 それまでの麺のボイルは、誰もが木炭を使っていたが、火力が弱いことに気付き、石炭を焚いて、高温、短時間ボイルを実施したことも特筆するべきだろう。

 こうしてはやり出して見ると、店が手狭となり客の収容ができなくなったため大宮の「三平」はその向い側、稲荷神社横(南七条西四丁目)に昭和二十六年に移転したのである。そして ここで“みそラーメン"の開発ということになるのだが、それは後述する。

  一方昭和二十六年、南五条西三丁目東宝公楽横に八軒のマーケット風建物が建ち、くだもの屋、菓子店、すし屋などが軒を並べた、
  その中に「来々軒」というラーメン屋も入っ た。場所が場所だけに「来々軒」のラーメンは売れた。 店主は元満州国政府の外務官僚だったという岡田銀八の見事な転身である。

 
札劇前はそのころ路上整備に入って、 屋台は立ち退きを迫られていたため、松田勘七は、東宝公楽横の一番北隣の菓子店に目をつ け、そこに店をかまえ(昭和二十六年)ノレンに「龍鳳」と大きく染め抜いた。
  そうしているうちに隣に「さぬき屋」が入って来た。
  さらに半年遅れて「天津軒」 も軒を並べるようになった。
  こうしてラーメン店がこの横丁にずらりと並ぶようになり、週刊誌などが書き立てたので、いよいよ繁昌し、八軒のうち七軒までがラーメン屋で、その名も「公楽ラーメン名店街」と名づけけられた。
  そのいずれの店も朝までの営業で、深夜族の胃の腑をみたした。 こうもラーメン店が並んで、大丈夫だろうか、と思う人が多かっただろうけれど、この頃になると、それぞれの店が自分の店の味を見い出していたから、各店に常連をつくり出していて、その心配は全くなかった。
その八軒とは、北より「龍鳳」「さぬき屋」「芳蘭」「来々軒」「宝寿司」 「天津軒」「満州軒」「蓬莱軒」である。
  この八軒の店は冬季オリンピックに備 えて道路拡幅工事の実施で取壊される 昭和四十四年八月まで、全国的に「さっぽろラーメン」と騒がれながら営業をつづけたのである。