VOL.6 屋台ラーメン

ラーメン屋台実物
(西山製麺本社:保管)


  昭和二十三年南三条から南五条の西二丁目通りまでの約二百二十メートルの道の両側に屋台を出すことが許可され、小さい屋台は細い柱に布の屋根を張った程度の駄菓子屋から、小間物、餅菓子、履物など雑多な屋台店がたち並ぶ中 、割 りとしっかりした屋台が札幌劇場前に十五、六軒並んでいた。
これらは夜閉店時も屋台を解体しなくとも良い屋台であったため骨組みもおおきくしっかりとした屋台であった。

  昭和二十三年十二月に大宮守人がこの屋台街の一軒に入り、ツブを焼いたり、うどんを出したりしていた。
  年が明け、昭和二十四年に入ってから、大宮の隣の屋台にラーメン店が入って来た。 松田勘七の店である。

  大宮は、松田の店がいつも 客が入っているのに驚いた。
  松田の毎日の多忙な繁昌ぶりを見て「ラーメンというのは 売れるものだ」と思った。
  そんなある日、大宮は松田から「ラーメンをやんなさい、今からでも遅くないよ」と、すすめられた。 
市内の盛り場の街辻や疎開で出来た空地にいくつかラーメンの屋台が出来はじめていたころである。

  大宮はラーメンの将来性を計算し、ラーメン屋になることを心に決めた。 松田に相談すると、二つの返事で「明日からでも……」と承諾してくれた。
  大宮は松田の屋台に入ってラーメン作りのコツを修得した。 毎日の忙しい作業の中で、客の望んでいる味、注文されてから、つくって客の前に出すタイミング、つくっている時の眼のくばり、ポーズなどをしっかり自分のものにするのに苦心をした。

  今日*では、本州で「さっぽろラーメン」には「龍鳳系」と「三平系」がある、と認識されている。しかし、そう思われているこの二つの系統も、実はこうして一つ釜から生まれ たものであるし、この二つの系統のラーメンを分析して見た人の結果でも、大差はなく同様のものであることは、業界の人が熟知していることである。


*文中で「今日」となっていますが、この記述は「さっぽろラーメン物語」が書かれた当時「昭和の後半におけるラーメン店の系列」についての記述です。