敗戦の日本国内は食料難で大変であった。配給の米は極度に少なく、その上主食品の統制が厳しくて買い出しにはどこの家庭でも頭を悩ませていた。食べられるものなら何でも
食べた時代で、それでも栄養失調を訴える人が多かった。
そんな昭和二十一年暮れに南二条東一丁目創成川畔の兼正旅館前に屋台のラーメン店 が出現した。その川向いには闇市(南二条西一丁目)が立っていて、何か食べるものを探
し求めて、ブラブラしていた人びとは、それッとばかりにその屋台に群がって、そのラーメンに飛びついた。
戦後の札幌のラーメン店第一号の出現である。
この屋台ラーメン店は、天津の引き揚げ者である松田勘七がやったものである。松田は天津では土木請負業をやっていたが、帰国
して見て職もなく、やっと思いついたラーメン店なのである。幸い友人に製粉業者がいた。当時カン水は入手できないため重曹を使って奥さんと二人で手ぶみ式で粉をこね、それを手動式製麺器で麺にした。スープは当時肉屋を探がし回ってブタの骨を入手、これを長時間かけて煮出した汁。
味付けは、松田が中国にいた時、 どんな塩味を主にした中国料理にも日本人は醤油を使いたがるのにヒントを得て誓油味に
した。
屋台は夕方四時頃に開いたが、全部売りつくすのにそんなに時間はいらなかった。
店の前は押すな押すなの盛況だったのである。こうして戦後の第一号店が誕生した。
昭和二十二年、西山仙治が狸小路二丁目金市館前に屋台のラーメン店を開いた。『だるま軒』と筆太に書かれた屋台には、やはり人びとが群がった。
西山は東京で昭和三年ごろから中国料理の修業をした人で、製麺技術には自信があった。
昭和二十四年夏、二条市場に『だるま軒』というラーメン店を張った。自店の麺ばかりで なく当時街辻の空地などにぽつぽつラーメン屋台が立ちはじめ、その人たちの注文の麺も製造した。その当時の屋台数はざっと数えて三十軒。
その大半は一日せいぜい二十食位。 そうした中で群を抜いて売っていたのが松田勘七である。松田は西山の製麺のよさを知って自分で麺をつくることをやめ西山の麺を仕入れ、うまいラーメンを売ることに専念したのである。
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