VOL.4 ラーメン
と喫茶店


  昭和五年には札幌市内に中華料理を食べさせる店が十店になっていた。 東和園、栄楽軒、芳蘭、第二芳蘭、などの十店で、それぞれ味を競っていた。
 その頃の中華料理店ではいずれの店も中国人調理師をかかえていたから、ラーメンの麺 はそれぞれ自家製であった。

  しかし、王万世と吉田某が麺を販売するようになって、ボイルする大きな鍋と、工夫をこらしたスープがあれば、喫茶店でもラーメンをメニューに入れることができた。

 香りで売るコーヒーの店の中でラーメンを啜らせるので、ちょっとそぐわない感がないでも ないが、それを思い切って取り入れた店は、よく客が入ったし、一ぱい十銭のコーヒーと 一ぱい十五銭のラーメンがほぼ同じくらいに売れたようだ。
  喫茶店の大半がラーメンをメニューに入れていただろうけれど、中でも今日も語りつがれている店に 「お坊ちゃん」「ルビー」「暁」 「朗」「なぎさ」「松島屋パーラー」などがある。
  一番最初にラーメンを出した喫茶店はさだかでない。
開店が大正十四年夏という「ルビー」の店主岩井安栗が「当時狸小路にいた王万世という中国の料理人から麺を買って出した」と、いっていることからすると、昭和五年ということになる。
  一方「お坊ちゃん」は高橋賢太郎が美少年に白い制服を着せて颯爽とオープンしたのが昭和四年である。この高橋は吉田某が狸小路四丁目北向きに小さな店を張って、ラーメンの麺を本格的に売り出したと き、隣同志ということもあってそこから麺を仕入れた。それも昭和五年である。そうなると、どこが早かったはさだかでないが、どちらにしても喫茶店でラーメンが出され始めたのは昭和五年ということになりそうである。 「ルビー」も「お坊ちゃん」も、今日も語りつがれるほどの味覚を誇っていたようだ。
  そうした後に「暁」もラーメンを出すようになり、映画帰りの夜食に適したラーメンは売れていた。  北大生を中心に、鉄北の人々は「なぎさ」のラーメンをよく食べただろうし、また当時(昭和七、八年ごろ)北海高女に通学の娘松島艶子が、学校から帰ると、喫茶店「朗」のカウンターの中に入っていたため、そこにもニキビ華やかな若人が集まった。この若人たちは、ムードより実をとろうとして一ぱい十銭のコーヒーより十五銭のラーメンに飛びついた。

  恐らく、喫茶店でラーメンを出すというのは札幌だけに見られた現象ではなかっただろうか。 と、いうのは、小樽の大国屋隣にあったレストラン「オリンピック」(橋本春吉 経営)は、コーヒーもうるさい店であったが、ラーメンはメニューになかった。
  札幌市内でラーメンを出す喫茶店は、それぞれ常連に食べられていたにちがいない。当時ラーメンはどこでも一ぱい十五銭が相場であった。
 #しかし、果物の店の奥をパー ラー風にして、十五銭のフルーツポンチを自慢にしていた「百留屋」では支那そばといって十銭で出していた。
  ラーメンは、こうして庶民の食べものとして、徐々に愛好者をふやしていった。

  戦前の 東京でも、街のあちらこちらに浪花軒などと看板を掲げる庶民向け食堂があったが、そこ でも“焼そば"と同じように“中華そば"と呼んで一ぱい十銭のちぢれない麺の丼を食べ させていた。 札幌市内でも、そのうちに喫茶店ばかりでなく食堂でも“支那そば"といってメニュー に出て来るようになるのだが、戦時色が濃厚になって、配給制が敷かれるようにな り、そば、うどんの影にラーメンは姿を消してゆくのである。