そのころのラーメンの麺は、いわゆる“手ぶみ式"といわれるもので、一本の丸太様の棒を股にかけてこね上げる式のもので、全身を使う重労働に属するもの。
強力小麦粉にカ ン水を混ぜ、それを充分にこね上げ、ある時間熟成させて後にのして庖丁を入れた、いわゆる“手打ち"だった。
“手打ち"と称して熟成させた粉を、手で伸ばして細くし、ボイルして食べさせている麺は、中国でも北部の方に属する系統の製麺法である。
スープは鶏がら、貝類のダシで、ラードのコクとコショウの風味で塩味に仕立てたものであった。
駅前の「ときわ食堂」を経営していた明正大七郎が「あのころのスープはどこでもあっさりしたもので、油が上にうっすらと浮く程度のものだった。私は貝類のダシに塩で味をととのえ、色をつける程度醤油を入れた。
しかし、鉄道関係の出前で、毎日てんてこ舞をさせられた」 と、語っていることからみても今日のラーメンとの違いが想像できる。
このころあった、札幌駅前のときわ食堂(明正大七郎経営)は、駅の乗降客のほか、国鉄関係の出前とで、一日二百食余のラーメンをこなしていた、その麺は王の打ったものだ。
中華料理店が札幌にぽつぽつ出来はじめたのは昭和の初期からで、店ごとに中国人の調理人を雇っていたため、評判になりはじめたラーメンは各店とも自家製であった。
ところが、どこで誰に教わったか、昭和四年ごろ、北一条西二十丁目北向きに住む僧侶 で吉田某という人が、余暇にラーメンの麺を打っては販売しはじめた。
それまでは中華料理店にしかなかったラーメンが、中国人料理人を雇わなくても麺が入 手できるようになったので、喫茶店でも食堂でもラーメンが出せるようになった。
そのころの札幌は“喫茶店の街"といわれるぐらい喫茶店が多く、麺の需要が急速に伸びて、昭和五年、吉田は、狸小路四丁目(北向き)に小さな店を張って本格的に麺の製造をはじめた。
この吉田の麺を使いラーメンを出して有名だったのが、狸小路四丁目北向きの中ほどに昭和四年に開店した「お坊ちゃん」である。
青年と呼ぶには若過ぎるボーイの白い制服が印象的。
和田義雄氏著『札幌喫茶界昭和史』によると、 「十銭のコーヒーよりも十五銭の表那そば(ラーメン)が売れていた。高島賢太郎の経営」。
と、ある。
こうして、昭和四、五年には吉田、王万世の手になるラーメンの生麺が出回り、多く の喫茶店でも遅れてはならじと、ラーメンをメニューに加えるようになった。
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