VOL.2 昭和初期
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 昭和五年、当時豊平方面に住んでいた小倉と沼久内という人達が、大八車に屋台を積んでチャルメラを吹きながら街の中をねり歩いた。
 街の真中ばかりでなく、住宅街でも チャルメラの音を聞いた人が多かったので、かなり広範囲に回ったものらしい。
 彼らは
屋台ラーメンの元祖といえる人達である。
  その後、小倉は狸小路一丁目に「馬」の字を裏がえした文字を書いて「ひだり馬」という飲食店を出し、そこでもラーメンを出し、店は戦時中までつづいた。
  また沼久内は その後北大岩手寮の寮長をやった。

  札幌市民にラーメンを売り出した人は王文彩であるが、札幌を“ラーメンの街"といわれる要因をつくった人は王万世である。
  王万世は昭和の初めごろ大阪道頓堀の中華料理店の帳場をつとめていた人で、中国の中学校を出ているといわれ、美しい文字を書く人であった。
  日本語もなかなか達者で、 会話の不自由もなかった。
  昭和四年、札幌にやって来た万世は、北五条西十三丁目「松島屋パーラー」に中華料理の調理師として雇われた。
  この松島屋パーラーは斎藤喜太郎が大正十二年に開店していて、「ルビー」(大14)などより古くコーヒーを出す店としては草分けといえる店である。
  松島屋パーラーは、この王が来てから、中華料理全般をメニューにし、ラーメンも売り出した。
 王万世はその後「松島屋パーラー」を出て南三条西三丁目(いまの三条通千秋庵隣あたり)に中国まんじゅう、シューマイの店を自営(昭和五年)、さらに日本女性と結婚して 狸小路六丁目に「万福堂」という中華料理店を張った。
  「万福堂」も、やはりラーメンが評判であった。それに麺を打つことの上手な王は、自店で使用する麺ばかりでなく、市内の喫茶店、食堂にも卸していた。
  このころあった、札幌駅前のときわ食堂(明正大七郎経営)は、駅の乗降客のほか、国鉄関係の出前とで、一日二百食余のラーメンをこなしていたが、その麺は王の打ったものだった。