大熊は昭和三十五年まで旭川で小劇場をやっていたが、倒産して足繁く旭川中学の後輩に当る札幌の大宮の店にやって来ていた。
その大熊も、大宮に札幌でラーメン店をやりたい旨の相談をしている。大熊はもともと
旭川で昭和二十三年から二十七年まで千葉力衛じこみのラーメン店をやった経験がものを言いい、また大宮との旭中同窓の友情に支えられて昭和三十七年五月に中央区大通六丁目
小路奥に「熊さん」を開店、その翌年の暮から“みそラーメン〃 を堂々とメニューにのせた。 創始者大宮も、時を同じくしてメニューに掲げ、こうして札幌の人びとの前に“みそラ
ーメン"がお目見えしたのである。フタを開けてみれば、いつの間にか“みそ"“醤油" “塩"と三種のラーメンを出していてもその大半が“みそ"に集中し、圧倒的人気を博するまでにそう長い日時がいらなかったのである。
大宮はみそラーメンの始祖である。が、このみそラーメンが売り出されるまでの経過をたどってみると、そこに人間大宮の人柄のよさが散見できる。 彼には日常実にたくさんのよい常連がいた。その中の一人に今日中央で活躍中の漫画家おおば比呂司もいた。毎夕のように当時勤務先であった北海道新聞社の早版を持って現れていた。また従業員にも店をまかせられる技量をもった人も何人か常にいた。そうした人間関係の綾の中で、大宮は
“みそラーメン"を慎重に発想から七年も胸の中で醗酵させていたことには頭が下がる。
この“みそラーメン"がイコール 〃さっぽろラーメン"といわれるまでに普及したのは
大熊勝信の力によるものである。
昭和三十九年秋、高島屋が東京店と大阪店で北海道物産展を開催し、その一隅に「本場
さっぽろラーメン実演販売コーナー」が設けられ、北海道観光協会の依頼で、「熊さん」 (大熊勝信)が趣いた。大熊はこの時“みそラーメン"一本にしぼっての実演販売だったのでその反響は大きく、都内、府内での“本場さっぽろラーメン"は一躍大評判となったものである。翌年からは関西、東北とこの物産展のキャラバンはつづき、またこの好成績を
真似ようと各デパートも物産展を企画し、札幌市内の名だたる専門店から人を呼んでは実演販売をし、現在では九州、四国まで全国主要都市で開催されるようになって、いよいよ
“みそラーメン"は広く知られる処となった。 こうして“みそラーメン"は開発されてわずか三年で一気に上昇気流に乗って全国的なおいしい食べ物となった。
こうしたブームは、中央の企業家の注目を集め、フランチャイズ方式の企業ラーメンも 約二十社出来たり、そのうち一社が本場札幌へ逆上陸するという珍現象も起きた。それは
四十七年、北国商事の進出であるが、後述する。
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