一九二○年(大正九年)
旧ソ連にて、尼港事件が勃発。
この時ニコライエフスクに在住していた中国人「王文彩」は樺太を経由して札幌へ逃がれて来た。
当時は北海道大学には相当数の中国人留学生がおり、その一人が、王を北大前の竹家食堂に、 “中国料理をつくれる人がいる"と、紹介した。
竹家食堂ではそのころ中国人留学生向けの献立に苦労しており、さっそく、王文彩を雇い入れ、中国人留学生のための献立を任せることにした。
王が作る数々の中国料理の献立の一つに、ドンブリの中に透明な汁と、ちぢれた麺を盛った食べものがあった。
店主の大久が試食してみると、塩味ながらラードの効いた汁の味、日本の麺では味わえない歯ざわりの麺、そして支那竹、コショウの香りが美味な一品であった。
大久は"これは日本人にもいける"と、王にその料理の名を書かせてみると"粒麺"と 書いた。
大久は「竹家」を“粒麺"を 目玉商品とし、中国風料理店として献立を一新。
こうして、札幌市北九条西四丁目(現在三晃ビル―元中江病院)に中国料理専門店 「竹家」が誕生し、同時にラーメンが売り出された。
時は、大正十二年、札幌にラーメンが登場した。
|